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角屋もてなしの文化美術館
 
 
 

角屋もてなしの文化美術館はかつての花街・島原の揚屋であった建物を保存し、
数々の書画・工芸を年2回の企画展で展示しています。
1階の展示室と台所・座敷は入館料を払えば自由に見学できるのですが、
2階の座敷の見学については要予約です。


2階への案内が始まるまで、1階の企画展示室を見学しました。
この時開催されていた企画は「島原舞太夫のよそおい展」で、
島原の太夫の衣裳や髪型などの歴史を
絵画や実際の衣裳・髪飾りなどでたどっていくというものです。
初めのころは比較的簡素だった太夫の衣裳や髪型も
時代が下るにつれて華やかなものになっていきます。
あれだけの衣裳と装身具を身に着けて、優雅な立ち振る舞いをするのですから
太夫には美貌と教養だけではなく体力も必要だったのだなと思いました。


2階の座敷の見学の時間となり、案内にしたがって2階に上がります。

「緞子(どんす)の間」
最初に案内された部屋です。
襖が緞子張りになっていることからこの名前がついています。
広い床の間と違い棚がこの部屋の格式の高さを表しています。
掛け軸にはかわいい子犬の絵がかけられていました。

「翠簾(みす)の間」
襖が山田峨山による「総翠簾の絵」であることからこう呼ばれます。
実際に遊宴が行われていた部屋のため襖は蝋燭の煤で汚れてしまっていますが、
それでも本物の翠簾のように描かれた様子は伝わってきます。

「扇の間」
天井に58枚の扇面画を貼り付けていることに由来します。
扇面書画の作者は多くの著名な絵師や文人です。
欄間や襖の引き手、釘隠しなども扇型になっています。
この部屋の特徴は舞台が設けられていることで、
大規模な宴会になると、緞子の間・翠簾の間・扇の間をそれぞれ隔てる襖が
すべて取り外されます。
そのような時義太夫語りを舞台にて行います。

「草花(そうか)の間」
1階から階段を上がって最初に入る部屋で、廊下として用いられた部屋です。
3部屋を使って宴会が行われる際には控えの間としても用いられました。

「馬の間」
この座敷の天井は角屋が六条三筋町から現在地に移転する際に
移築されたものと伝えられます。
襖は円山応挙による『少年行』で、
馬に乗る人物が描かれていることから「馬の間」と名づけられました。

「桧垣の間」
天井・障子が桧垣組で作られているところからこう呼ばれます。
非常に手の込んだつくりの障子なのですが、
障子の桟はすべて一本の木を削って造られたもので、
貼り合わせは一切用いていないそうです。
これまで見てきた部屋が「書院造」であるのに対し、
この部屋は「数寄屋造」になっています。

「青貝の間」
ここは壁・建具などに螺鈿が施されており、
螺鈿細工に用いられた貝にちなんでこの名前で呼ばれます。
ここの壁は黒くくすんでいますが、もともとは浅葱色でした。
他の部屋の壁は煤で黒くなっていたのを元の色に戻していますが、
この部屋は壁に螺鈿があるため壁の塗りなおしができず、
現在まで黒い壁のままになっています。
障子には大きな窓が開けられ、オランダ製のガラスがはめ込まれています。
窓を閉めたままでも庭の景色が眺められるようになっているのです。
窓を開けると露台(ベランダ)が設けられています。
このように部屋全体が異国趣味で設えられ、他の部屋とはずいぶん雰囲気が異なります。


2階の見学はここまでで、1階へ降ります。
「松の間」
角屋で最も広い座敷で、庭にある臥龍松からその名で呼ばれます。
庭には3つの茶室があり、それぞれ異なったつくりになっています。
ここで島原や角屋の歴史、揚屋や太夫について案内を聞きました。

なぜお客をもてなす店を「揚屋」と呼ぶのかというのは、
かつて1階は台所や居間など店の者たちの生活の場で、
お客はすべて2階に「あげて」もてなしていました。
そのため「揚屋(あげや)」と呼ぶようになったのです。
後にお客が増えて捌ききれなくなったため、
1階にもお客をもてなす座敷を設けるようになりました。
「揚屋」に対して太夫などを抱える店を「置屋」と呼びます。
現在島原に唯一残っている置屋が「輪違屋」で
置屋兼お茶屋として営業を続けています。(「観覧謝絶」の札がかかっています)

様々に趣向を凝らした座敷や調度品
あらゆる教養を身につけた接客のプロである太夫など
まさに「もてなし」の心とはこういったものであるのかと
目から鱗が落ちるような美術館でした。
 


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