フランス象徴主義の詩人シャルル・ボードレールの詩集。

初版1857年6月であったが、直ちに風紀公安を乱すものとして裁判にかけられ、

6詩篇が削除を命じられた。

1861年2月に禁断詩篇の代わりに新しく35の詩篇が追加され、

配列の順序も変更された第2版が出版された。

更にボードレールの死後1868年末、詩篇を増補して「悪の華」第3版が刊行された。

一般に流布しているのはこの第3版である。

「悪の華」で謳われた、キリスト教異端、ダンディスム、異国趣味、エロティスムといった

いわゆる「頽廃的」なテーマは、世紀末象徴主義芸術の源泉となった。

 

 
アーツ・アンド・クラフツ Art and Crafts

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19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパ各地に広まった芸術様式。

この様式は、世紀末の建築、彫刻、絵画、工芸のあらゆる領域に広がっている。

Art Nouveauはフランス語で「新しい芸術」を意味し、

美術商サミュエル・ビングが1895年に開いた店「アール・ヌーヴォー・ビング」に由来する。

アール・ヌーヴォーの特色には「装飾性」「平面性」「曲線性」があげられる。

日本、中国、ジャワなどのヨーロッパとは異質のフォルムを取り込むことによって「装飾性」「平面性」を生み出した。

「曲線性」はアール・ヌーヴォーの形態を特徴付ける最たるものである。

この曲線は機械的なものではなく、植物のつるの生長や生命の流れを思わせるものである。

アール・ヌーヴォーはイギリスではモダン・スタイル、ドイツではユーゲントシュティール、イタリアではスティレ・リバティと呼ばれ、

万国博やグラフィック雑誌といった新時代のメディアにのって急速に普及した。

しかし、次第に機能性よりも過度な装飾性に流れてしまい、当初の理想であった実用性を失って衰退。

 

 

両性具有者を意味する。

薔薇十字会の設立者ジョゼファン・ペラダンは人間の原型はアンドロギュノスであると主張し続けた。

ペラダンは評論「アンドロギュノス」(1910)で「アンドロギュノスはギュスターヴ・モローの作品 およびラファエル前派、とりわけロセッティとバーン=ジョーンズの作品に一貫して姿を見せる」といっている。

バーン=ジョーンズ「運命の車輪」の運命の女神はミケランジェロの影響を受けた中性的な姿で描かれている。

「孔雀の裳裾」に見られるように、ビアズリーの描く男性は女性的で、女性は男性的である。

世紀末は固定した男女の性差観が壊れつつあった時代であり、

女性解放の声が高まってくる歴史の流れを背景に、アンドロギュノス信奉は生まれた。

 

 

1874年、パリでモネ、ドガ、ルノワール、ピサロらが官展(サロン)に対抗して開いた展覧会が端緒となって誕生した芸術運動。

彼らは主題の意味よりも感覚を重視し、自然の光を受けて変化する色彩の印象を忠実に記録する。

彼らのグループ展は1886年まで8回開催されたが、1882年に開催された第7回展からいわゆる「印象主義」から乖離し始める。

最後の展覧会となった1886年の展覧会は出品メンバーや内容から見ても「印象主義」とは呼べないほど変化しており、

反印象派的方向に踏み出している。

 

ウィーン・ゼツェッションとも呼ばれる。

世紀末にアカデミーの美術に対抗して組織化された運動で、1897年「オーストリア芸術家連盟」と銘打ちクリムトらによって結成された。

彼らが目指したのは、オーストリアの真の芸術の諸勢力を糾合すること、公衆に本物の芸術への感情を与えること、

外国の芸術運動との交流を図ること、それと同時にオーストリア芸術という国民的懸案を実現すること、であった。

「分離派」と呼ばれる芸術運動は主にドイツ圏で盛んになり、

ウィーンに先立ち1892年にシュトゥックらがミュンヘンで、1899年にはベルリンでも結成された。

多くの芸術家を集めたが、スタイルに共通性はなく、分裂を重ねながら20世紀への潮流を作っていった。

 
エコール・デ・ボザール

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エロス

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エロティシズム

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