18    ヴェネツィア
ぼくは、ヴェニスの「嘆きの橋」の上に立っていた。
両岸にある宮殿と牢獄とをつないでいるのだ。
ぼくは、波の上に、ヴェニスの楼閣がうかみ現われるのを見た。
それは、ちょうど、魔術師の杖のひとふりによって現われたみたいだった。
千年の歴史が、その雲のように茫漠とした翼を、ぼくの周囲にひろげていた。
滅び果てた栄光は、はるかな昔に向かって、微笑を返すばかりなのだ。
そのはるかな昔にあっては、数多い属領が翼ある獅子の標章かざした大理石づくりの
 建築物の立ちならぶのを、仰いでひれ伏したものだった。
そこにこそ、ヴェニスは国家を創成し、数百の島の上に君臨したのだった。
 
ヴェニスは、大洋の面に清らかにたつ母神キュベレーのようだ。
城塔をかたどった王冠つけ、荘厳豊麗の威容そなえて、
縹渺(ひょうびょう)たる遠きかなたにうかみ現われた
海上の支配者、制海権の掌握者;
これこそ、往昔のヴェニスの姿だったのだ―ヴェニスの娘らが結婚するとき、
その持参金には、多くの国々から掠奪してきた分捕品が当てられた。
無尽蔵なる当方の国々の富は、燦爛とかがやく宝石の雨となって、
 その母親の膝にふりそそいだ。
ヴェニスが王者の紫衣を身にまとうとき、もろもろの国の王侯は、
その饗宴に寄りつどって、それによって自分らの威厳が加わったように
 おぼえたりしたものだった。
 
ヴェニスには、かつて舟と舟とがこだまし合ったタッソーの歌もとだえてしまった。
ゴンドラの漕ぎ手は、歌うこともなく、だまりこくって漕ぐばかり。
その宮殿も、くずれて、水のべにおちかかり、
いまは、耳に聞こえる音楽もまれとなった。
かのよき日々はすぎ去ったのだ―けれども、「美」のみはここにのこる。
国はほろび、芸術は消えた―けれども「自然」のみは存在する。
しかも、自然は忘れないのだ。ヴェニスが、かつて、どんなに美しい市であったかを。
ありとあらゆる祭りの行事にうかれさわいだ土地であったかを。
地上の歓楽地であったかを、イタリアの仮面舞踏場であったかを。
 
バイロン「ヴェニス」

 
モロー ヴェネツィア
1885頃 25.5×23.5cm
ギュスターヴ・モロー美術館
 


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