「サロメ」を踊った女たち
 
 
 

世紀末の「踊る女」といえば「サロメ」です。
世紀末のサロメ像を決定付けたのは、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」ですが、
これは芝居として上演されることを目的としているため、
サロメの踊りについては
『サロメ公主七本の布帛(きれ)の舞をひとさし舞ふ』(日夏耿之介:訳)
という一行のト書きがあるだけで、
それがどんな踊りであるかは記されていません。

しかし、ワイルド以降「サロメの踊り」を実際に舞台で演じる舞踊家が現れました。
そのなかの一人にロイ・フラーがいます。
彼女の「サロメ」はワイルドを感激させたといいます。

ロイ・フラー(1862〜1928)はアメリカ生まれの舞踊家です。
正規の舞踊教育を受けたことはありませんが、
早くからショービジネスの世界に入りました。
1892年にヨーロッパに渡り、
パリのミュージックホール「フォリー・ベルジェール」で踊るようになりました。
彼女は日本の着物から着想したと思われる大振りの白い衣裳を着て、
裾に通した棒を自在に操り、変化する照明に色とりどりの蝶が舞うような
「火の踊り」で人気を博し、
多くの画家や詩人にインスピレーションを与えました。
この「火の踊り」はまさに動くアール・ヌーヴォー芸術といったものだったようです。
彼女の踊りは電気による舞台照明の発達なしにはありえなかったものです。
ロイ・フラーは色彩と照明による特殊効果の先駆者として
舞台芸術史に名を残しています。
また彼女はイサドラ・ダンカンや川上貞奴を後援したことでも知られています。

フラーのほかにも当時「サロメ」を踊って評判になった舞踊家がいます。
カナダ生まれのモード・アラン(1873〜1956)は
1903年ウィーンを皮切りにヨーロッパ各地で独自の「サロメ」を踊り、
大変な話題となりました。
彼女は舞踊の歴史には名を残すことはありませんでしたが、
当時その踊りは相当な人気だったようです。

またロシア系ユダヤ人のイーダ・ルビンシュテーインは
1908年に全編が台詞なしのマイムによって演じられた「サロメ」において
「七枚のヴェールの踊り」を踊りました。
彼女はフランス象徴主義の影響を大きく受けており、
「サロメ」をぜひとも踊りたいと熱望していました。
ルビンシュテーインの踊りはヴェールを一枚一枚脱いでいくという
まるでストリップショーのようなものだったそうです。

実現はしなかったのですが、女スパイとして知られる舞踊家マタハリも
「サロメ」を踊りたいという願いを後々まで持っていたそうです。

「サロメ」といえば文学や美術の世界において大きな影響を与えた作品ですが、
ここまで見てきたように舞踊の世界にも影響を与えていたといえます。
19世紀ヨーロッパにおいて舞台で踊られる舞踊といえば
いわゆるクラシックバレエでしたが、
これら「サロメ」の踊り手たちの「踊り」は
それまでのバレエのテクニックとは大きく異なるものでした。
「サロメ」はモダンダンスのパイオニアとしての一翼を担ったといえるでしょう。